(東海龍門会関連記事抜粋)

平成14年4月21日発行

第32号
平成14年(2002)年


南極の石
 平成13年5月10日、弟の宮島 透(高21回卒)さんが母校を訪れ、「南極の石」を寄贈されました。贈り主は宮島敏一(高10回卒)さんで、第10次南極観測隊員・ヘリコプター操縦者(パイロット)として南極観測船「ふじ」から南極大陸の昭和基地までの物資輸送の任務に従事され、その時の参加記念として「南極の石」を持ち帰り母校に寄贈されたもので、母校玄関に展示(写真)されています。



東海龍門会
会長 西山一郎 (高三回卒)
 旧名古屋龍門会は東海龍門会に名称変更を行い、その第一回目の総会を平成十三年六月二十四日午後0時より市内中村区名駅南のガーデンビル九階、頤和園において開催しました。  男性十三名、女性九名合計二十二名の出席者でした。昭和十七年卒の金床敏行さん、十九年卒業の久保清昭さんのお二人に長老格の先輩として出席をして頂きました。  当日は梅雨のわずかな晴れ間をぬって、母校の池田正夫同窓会長が空路馳せ参じてくださいました。池田会長と前記の久保氏とは同年卒の級友であり、暫くぶりの旧交を暖めておられました。  池田会長からは龍門会全般の活動状況、母校後輩達の動静を伺い更に、同窓会報三十一号巻頭に書かれた会長の同窓会の意義のお話に出席者一同、感銘深く拝聴をさせて頂きました。  出席者数は前年の三十六名より減少し、このまま放置すれば、またまたジリ貧の傾向となりますので、翌七月十五日「有志の集い」を開き、前月の総会案内に対して欠席通知を返送してくださった会員百七名の皆さんに、事務局が新たに編集した東海龍門会員名簿を送付し、年度会費の納入方をお願いする事に致しました。その結果、実に四十二名の方々より有難くも会費の振込をして頂きました。今後とも、会員との接触は保つよう努力してゆく所存です。平成十四年二月二十三日、十九名の有志が 集まり、今年の東海龍門会総会の開催日時(五月中を予定)等の検討を行なったところです。  私の故郷の小学校同期生会が今年一月末にあり、帰省し再会を喜びました折、加高母校も訪ね、事務局柏木氏のご案内で新同窓会館に初めて入館する機会を得ました。明るいホール正面の大きなガラス窓越しには聳え立つ蔵王の秀嶺を展望し、正に一幅の緑の絵となって、感動を喚び起す景観です。 此処は元プールのあった場所であり、大窓のすぐ下は今は暗渠となっていますが、往時は竹薮におおわれた小溝が流れていました。  昭和二十年八月十一日の米軍機による加治木町空襲により母校も灰焼に帰した時、校舎横の防空壕の中に釘づけとなっていた吾々は、敵機の機銃掃射の僅かな間隙をぬって壕を脱出し、火炎を吹き始めている校舎の間を走りぬけ、大楠の下のスタンドを駆け下り、このプール横の竹薮下の小溝の中に体を浸し、必死の思いで身を潜めていました。程なく再開された第二波の攻撃もすさまじく、耳をつんざくばかりの機銃の乱射と焼夷爆弾の爆発音は今も鮮やかに覚えています。  加高同窓会副会長の安藤旭氏は高卒十回生の会報「つたかずら」四十八号に「古稀に思う−加中全焼−」の寄稿の中に吾々と同じ其の竹薮の下に逃げ込み、難を避けられた事を克明に記しておられます。因縁の場所に立つ新同窓会館の中で、二度とあのような悲惨な体験を後輩達が味わう事のないよう念じながら、辞去した次第です。